石臼の雑記

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抜きゲー「的な」世界観はどのくらい良いものなのだろうか

私が懐疑的な考え方の一つに、「○○なんてそんないいもんじゃないよ」論がある。

最もイメージしやすい使われ方としては、かなり稼いでいる高所得者が「金を稼げるからって、暮らしがそんなに良くなるもんじゃないよ」と謙遜気味に言う姿があるだろうか。何かの良さを知っている人間が知らない人間に言う台詞のテンプレートである。
もっとも、私の知人友人にはそんな極端な金持ちなどいないのでそういう台詞を実際に聞いたことはないし、高所得者への羨み妬みといったことは今回のテーマではない。いや、どうせなら5000兆円は欲しいが。

ここで大事なことは、そういった明らかに今より良い状態を想定したときには、たいてい「でもそれも思ったよりいいもんじゃないかもよ?」という意見が出てくるが、果たしてそれは本当なのかということだ。

ここで本題である。
私は所謂「抜きゲー」的な軽いノリで展開されるスケベが大好きだ。壮大なスケールの物語のなかで真の愛に気付く2人だとか、重苦しい男女のもつれの中で行われる重たいセックスというものは気が引けてしまうのだ。
これはエロに限定される話ではなく、「オッサンになると感情が揺れ動かされるのもしんどいから何も考えずに見られる娯楽が欲しい」となるのと原理は同じである。エロにおいても面倒な障害とは無縁な明るく楽しいセックスを見て、私はそれで思考停止で速やかに射精したいのだ。
射精に誠実な態度かと心の中の天使に問われれば目を見て答えられる自信はないが、精神が摩耗した現代人が退廃的な射精をすることもきっと射精の神は赦してくださるだろう。

 

さて、では抜きゲー的なスケベとはどのようなものになるかだが、大抵のものはセックスへの工程がやたら少ない。作品内でセックスに至るまでゆっくりと信頼関係を築いていくというよりは、作品開始時点で男女の信頼度・親愛度は100%。2人が出会えばさぁセックスみたいなテンポのよさが特徴だ。
例外として、催眠ものや常識改変ものにおいてはそういった友好度に関わらずいきなりセックスするものもある。それらの作品では現実で不可能なことをする背徳感に神の視点(第三者視点)で興奮する人もいるかと思うが、私は基本和姦厨なので今回語る内容としては割愛させていただこう。
抜きゲーはセックスへのハードルが異様に小さく、そして少ないが、同様に接触へのハードルもそうだ。挨拶がわりに美少女のおっぱいを揉むだとか、そもそも出会った段階でエロ下着を着ていておっぱいが見えているだとか、ヒロインの裸を見る・触れるまでが恐ろしく早いのである。俺でなきゃ見逃しちゃうね。

好感度(と都合の良さ)100%の女の子と相思相愛になり、出会って4秒でおっぱい揉みたいみたいな感情は性欲真っ盛りの男子中学生のころに一度は考えたのではなかろうか。私はおっさんだが未だにそういうことを考えている。
一応弁護しておくと、現実ではそういうことは考えてませんよ。現実では外にいる間は(1秒でも早く帰りてぇ)と呆けてるのでエロいことを考えている時間はないのです。目の前に好感度最大の相思相愛美少女がいるならまだしも、普段私がいる環境には(1秒でも早く帰りてぇ)という表情のくたびれた男しかいないのである。

ここで重要なのは、先に述べた「好感度最大の美少女がいて彼女たちといつでもいつまでもエッチできる世界」。カスタムメイド3D2のような現実的なことは何も考えず思う存分セックスできる抜きゲー的な世界というのは、いったいどれくらい良いものなのかということだ。


私個人の考えとしては一刻も早く現世から抜け出してそういう空間にいたい。これは男性諸君なら同意してくれる者が多いこともTwitterを見ているとなんとなくわかる。
しかし人の数だけ性癖があるのか、そういったスケベし放題ワールドに対しても「でもそれも案外そんな良くないかもよ?」派が出てくるのである。彼らの主張としては「おっぱいも常に見えてると飽きるかもよ」、「普段服を着てるからこそ裸が映える」とのことらしい。私は美少女の裸を見飽きるイメージが欠片もできないので文面として理解はできても共感は難しいが、どうやらそういった考えもあるようだ。いや、もしかしたら彼らは常に全裸の美少女を侍らせていて経験ゆえの意見を述べてくれたのだろうか。もしそうなら、私は血の涙を流しデスボイスをあげながらダイナマイトを全身に巻いて彼らに特攻してしまうかもしれない。写真でも撮られようものなら未来永劫インターネットのコラ素材にされそうな酷いビジュアルだが。
まぁそれはともかく、上記の理屈でいくと「女の子の裸は見飽きるのか」ということが議論の中心となってくる。


確かにいつか見た情報だと、「ジャングルの奥地に住む部族は男女共にほぼ裸で暮らしており、男性は女性の乳房を見ても興奮しない」みたいな話を聞いた記憶はある。これは裸が環境によって価値が変わることの端的な例と言えるだろう。
しかし同時に、その部族は股間は葉っぱで編んだ装飾品で隠していた気もする。たとえ乳房を単なる授乳器官としてスルーしても、やはり生殖器官そのものはえっちに見えてしまうのだろうか。こうなると話は「やはり女の子の全裸はえっちなので見飽きてスルーなんてできない」となるように感じられる。
そもそも彼らは産まれてからずっと半裸でいるから気にならないのであって、衣類を纏って生活する環境がスタンダードになっている私にとって意味のない考察な気がする。私にとって女の子の裸はえっちだ、女の子の裸はとてもえっちなのだ。
部族の例なんかを挙げて頭の良さそうな考察文にしたかったのだが、そもそも「いつまでもえっちなことできる世界に行きたい」なんて考えをしている男が頭のいい文章を書けるはずなどなかった。射精せんと意気込む者の知能がいかに低下するかを晒してしまったような気がする。

 

というわけで、「○○(常にえっちなことができる抜きゲー的な世界)はそんなにいいもんじゃないよ」は真なのかを考えてみたお話でした。
長波さま(好感度最大)と朝霜(好感度最大)に出合い頭に乳首つんつんしてしおらしい表情にさせたい。